Shake the spirits 3
 




 風早の返答はない。柊は独白のように続けた。
「……豊葦原の地で今、龍は眠りについている。神がいつ目覚めて答を出すのか、それがどのような答なのか知る者はない。それでも時は移ろい、歴史を綴り続ける……。
 我が君の力により、中つ国は平和を取り戻した。そして姫は王として故国に戻られるか、異界で生きていくかを決めかねておられる状態だ。それも戦乱が終息したがゆえの余裕とも言える」
 風早は無言のまま、味わうようにジントニックを飲んでいる。
「けれどこの安寧がいつまで続くものか、誰にもわかりはしません。これからまだひと波乱あっても不思議ではない……と私は思っているんですよ」
 彼はさらに声を落とした。
「風早、君は気づいているんでしょう? 世界にひそやかにたゆとう混沌の兆し……まだ微少なものではあるけれど」
 風早の目が瞬時、いつものやわらかな風貌に似合わぬ光を宿す。それに目を留めても柊の平静さは変わらなかった。
「ええ、そうです。もしかしたら私がこうしてここに在ることすら、静かなる混迷の証なのかもしれず――この道の先行きを見通すことは、なかなかに困難ですよ……」
「星の血脈をもってしても、ですか」
 ようやく発された低い声に柊はうなずいた。
「君も知っているように、私の力は想像されるより不便なものでしてね。見たいものが見られるとは限らない。それより天の眷属たる君の方がよほど……」
 言いながらもゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……未来を知ることに、もはやそれほど大きな意味はないのかもしれない。世界がどのようなさだめをたどり、気まぐれな神がどのような審判を下すのだとしても、私は……いや、私たちは、あの方と共に歩み続けるのみなのだから。
 でも実を言うと、このところ自分がずいぶんと貪欲になった気がしているんです」
「どういう意味です?」
 相手の欲のなさをよく知っている風早は、つい訊いた。
「……手にした幸福の味わいを知ってしまったあとで、その歓びを忘れ去ることは難しい。遠い思い出のいくつかが、甘い痛みで時おり私をひどくせつなくさせる。満ち足りたひとときが伝承の示した物語のひとつに過ぎなかったのだとしても、私は……」
 感傷的な告白は、ふと途切れた。ほの昏い照明の下、紫のカクテルの透き通った影が磨かれたカウンターの表面に淡く映り込む。『ブルー・ムーン』という名のそのカクテルに『不可能な物語』という別名があるのだと、彼が知っていたかどうか―――。
「だから……つい、かぼそい体をこの腕に引き寄せたくなってしまう、純な瞳が私を映して喜びにきらめくのをもう一度見たいと思ってしまう、姫自身が何も覚えてはいなくとも……。この想いをかなえるためなら何を引き換えにしてもかまわない……。
 もし私が本気だと―――そう言ったらどうします、風早?」
「酔ってるんですか、柊」
 穏当に返した風早に、柊は吐息だけで笑った。
「さあ、どうでしょう。君にはどう見えますか? でも君とは長いつきあいだ。君ならばこの気持ちをわかってくれると思いましてね……。
 ―――あの方は常に私を揺り動かし、魅了する。想うがゆえの果てなき苦しみさえも、罪深きこの身に甘美に沁みていく……」
 自身をも揶揄するような口調からはその真情を測りかねたが、柊はふっと表情を改めた。
「……ええ、わかっています。願うのはただ、我が君の幸福。そしていかなる変転を経ようと、あの輝く命に近しくあることこそ我が望み。過酷で重いさだめを負ったあの方を支え、どこまでも守り続ける。運命と運命を絡み合わせ、魂までも深く交わらせて……」
 彼はささやくように付け加えた。
「君がそう望んでいるのと同じようにね―――」
 交錯した視線を互いにそらさぬふたりの間を、胸ふるわすアルトサキソフォンの音色が高く低く流れていった。
「……わかりました」
 しばらくたって風早は口を開いた。
「これまでどおり、あなたのところとの行き来は千尋の自由にさせます。あなたが千尋を何より大切にしているのは知っていますし、あなたもこれ以上の無茶はしないでしょうから」
「君ならきっとそう言ってくれると信じていましたよ。ええ、姫の後ろにはいつも君がいるということを忘れはしませんので」
つい先刻までの憂いと懊悩はどこへやら、柊はずいぶんと機嫌がよさそうだ。それに対して風早が引っかかる部分がないと言ったら嘘になる。
 だが、柊のところには行かないようにと告げた時の千尋はとても寂しそうな顔をしていた。千尋にとって、柊が苦楽を共に越えてきた大切な仲間のひとりであるのは間違いないのだ。それでもやはり気は抜けないだろうと、風早は心ひそかに決意する。
 しかし昔から、落ち着いているようで時おりひどく気まぐれな傾向のある同門の兄弟子は、空になったグラスのステムをもてあそびながら気楽な調子で訊いてきた。
「そう言えば風早、もうすぐやって来るみんなの住まいのことですが、人数も多いことですし、思いきって近所に一軒借りることにしようかと思うんですが、どうでしょう?」





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